「できない自分」ってどこからくる?

お稽古後に子どもクラスの指導に関して、同僚からかなり細かく丁寧に教えていると言われ、自分が何故そのようにしているのかを考えてみると以下のようになった。


小学生になる前から道場に通っている小学校高学年の子がいる。
この子がなかなか思うように身体を使えていないようだ。
できないのか、やろうとしていないのか。
本質的なことはできているので、やろうとしていないのだろうと思う。
何故やろうとしないのか。

ひとつ、幼稚を装うことでできない自分を正当化しているように見える。
さいころに、マスコット的にかわいがられていたとうい経験がそうさせているかもしれない。
また、彼は一人っ子ということで、親との関係も幼いままということがあるかもしれない。
そのようなところから、リーダーシップを身に着けなくてはならない環境に置かれていないと想像できる。

もう一つ、こちらが主な理由ではないかと思うのが、自分が傷つかないように、最初から「やらない」ということを無意識にやっているというもの。
あることをやろうとしたとき、できるまでやり続ける場合と、諦めて辞めてしまう場合に大別できると思う。
これは、前提として「やろうとしている自分」がいる。
その状態でうまくいかなかったとき、一旦「できなかった自分」と向き合うことになる。
この時、自身は多少のショックを受ける。
一方で「やろうとしない」が前提にあると、できなかったとしても「できない自分」と向き合わなくて済む。
もし偶然にできれば、それはそれで精神的負荷のない状態で周囲からの評価が上がるので、悪い気はしない。
なので、「やろうとしない」を前提に置くのは精神的に楽なのである。
ただ、見る人が見ると、これは完全に見抜かれる。
傷つきたくないために、できない自分と向き合いたくないという精神は見透かされてしまう。
元々はあることに真剣に取り組んだにも関わらず、結果としてできなかった(「できるようになる」あるいは「理解する」のを諦めた)という経験が、このような思考に繋がるのかもしれない。
小学校の高学年辺りになると、このような考え方が出てくるのか?

自分の経験に照らして考えてみる。
小学校高学年の頃の私は、特に苦労せずとも日常的なことには対応できた。
これは単に運が良かっただけで、家庭、親族など、育った環境に恵まれていたのだと思う。
しかし、周囲には、授業が理解できない、手先が器用ではない、物事を理解することに苦労するといったような同輩が多くいた。
田舎の小学校だったので仕方がないのかもしれない。
それで、そのような子たちの一部は、学年が進むにつれ、真剣に物事に取り組んでいる私を嘲笑するようになっていく。
さらに、理不尽な暴力まで駆使して私の成長を妨害するようになる。
私が成長することで彼らに何か被害があるのだろうか?
彼らの中では、どういう思考が働いていたのだろうか。
おそらく、みんながやらない、できないなら自分も同じで済むから、全体のレベルを自分に合わせるべく、できる人間を妨害する、ということをしていたのだろう。
その一つの表れが「真剣に取り組む者を嘲笑する」だ。
その下にあるのは、「自分は真剣に取り組まないからできないのが当たり前」という考えだ。
さらに、それでも自分と考えを異にして「真剣にやっている」他人がいると、「やればできる」という例ができてしまうので、「やらせない」ように妨害するという行動に出るのだろう。

そこでなのだが、私を妨害するような輩が、彼らの理解できなかたこと、できなかったことを放置せず、身に着くまでやり切ることができていたならどうだったのだろうか。
小学生が身に着けることなので、それほど高度な内容ではない。
このそれほど高度ではない知識や技能を確実に身につくまで取り組むことができる環境があり、彼らがその教育を受けることができたなら、それでも私を嘲笑したり、私の成長を妨害することをしたのだろうか。


このことを考えると、ロケット研究の植松努さんの話を思い出す。
いじめが起こるのは、「できない」というマインドがあるからだと植松さんは言う。
「できる」というマインドになるといじめはなくなる。
ロケットを打ち上げるというのは、最初はだれもが「できない」と思う。
でも、子どもたちそれぞれが小さいロケットを作って打ち上げるというワークを行い、その結果、自分で作ったロケットが打ちあがると、全員感動するそうだ。
全員「できない」が「できる」に変わる瞬間を体験する。
そうすると、「やればできる」というマインドが形成されるのだと思う。

その結果、自信を持つことができ、いじめはなくなるのだという。

 

道場に通っているその子はいじめをするような子ではないと思う。
このままいくと、どちらかといえばいじめられる側になるほうだ。
「できない」というマインドは、いじめる側にもいじめられる側にもなりうるマインドのような気がする。
そして、彼は「できない」(≒やらない)というマインドに支配されかけているように私には感じられ、このまま年齢を重ねていくと、どこかで誤魔化しが利かなくなる時が来ると思う。
ただ、小学校高学年で「できない」を感じているのはある意味幸運かもしれない。
人生の早い段階で、「できない」を経験し、それを意識的に「できる」に変えるプロセスを繰り返すことで、大体のことは「やればできる」という姿勢が身に着いていくと思う。
先に述べた「できるまで取り組める環境」はまさに道場のあるべき姿だ。
特に少年少女に対して真剣に対峙し、できるようになる瞬間を一緒に味わえる伴走者として関わることも私にできることの一つである。

 

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