力を抜いた姿勢

今回の合氣道のお稽古は4名と見学の方1名。
見学の方がいたので、統一道で立ち姿と静座を行い、統一体の強さを体験してもらった。
姿勢については、意識していないと周囲の影響を受けてしまうか?
まずは両親の影響を受けるのか?
次に一緒にいる時間の長い人間の影響もあると思う。
ある程度成長してくると、尊敬できる人の姿勢の影響を受けるかもしれない。

 

姿勢は心の状態も反映している。
心が凛としていれば、姿勢も凛としたものになる。
心が乱れていれば、姿勢も乱れたものになる。
心に滞りがあれば、身体のどこかに力が入った姿勢になる。
身体のどこかに力が入っているとそこに滞りができてしまうので、この状態が続けばどこかで身体に不調が現れる。
不調が現れないまでも、やはり心と身体に滞りがあると、他者と精神的または物理的接触があるときにぶつかりが生まれる。
これが自分にとっても相手にとっても不快なものになり、そこに対立が発生し、争いへと発展していく。
争いの元となる心と身体の滞りは、合氣道において投げることができない、相手が崩れてくれないという形で現れる。
私は、何故か合氣道に出会い、25年ほどお稽古を続けている。
その中で、常に「力を抜く」ことを指導されてきた。
力を抜くことが高いパフォーマンスを得るための条件だからだ。
だから日常的に力を抜くことをやっているつもりだった。
ところが、無意識に力が入っている場合があるということを数週間前に指摘された。
これには、少なからずショックを受けた。
そして、無意識にやっていることをどう意識していけばよいのだという問いが生まれた。
ほんと、どうすればいいの??と考えている時、通っている整体院の先生から、ヒントというか正解になりそうなお話を伺った。
内容は次回に。

 

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落ち着きとざわつきの間

心が落ち着いていると、リラックスしていて物事に柔軟に対応できると言われている。
そうはいっても、常に落ち着いていて、心が全く乱れないというのは生きているうちはちょっと無理。
全く心が乱れないという人はいるのだろうか。
「落ち着いていなければならない、心が乱れてはいけない」という考えに縛られると、逆に落ち着くことができなくなりそうだ。
「心が乱れた状態になっても、元に戻せばよい」と考えて生活していると、かなり気楽にいられる。
心が乱れないというのは難しいかもしれないけれども、落ち着いている状態を知っていれば戻すことはできる。
心身統一合氣道では、落ち着いた状態を「一点がしずまっている」と言う。
私の理解だと、一点とは意識が向いている部分で、この一点が臍下丹田と言われる部分に向いているときが落ち着いている状態と言われているようだ。
私の場合、日常生活で心を乱されてしまう事柄によく出会ってしまう。
そうすると、一気に一点があらぬところに行ってしまう。
例えば、カーっとして頭にくる、ムカムカとして胸にくるなどだ。
その時に元の落ち着いた状態、つまり下腹に一点を戻す。
心を戻すのが難しいなら、身体に注目して、身体の状態を元に戻す。
カーっと頭に来てしまったら、その感覚を下腹に下げていく。
ムカムカと胸のあたりに来てしまったら、同じくその感覚を下腹に下げるように身体を操作する。
イライラしても、ドキドキしても、ざわざわしても、そわそわしても同じように身体を操作する。
これによって、そういった感覚は不思議と消失する。
感情が治まらない時は、まだ一点が下腹に治まっていないときだ。
一点を下腹に治めると、ネガティブな状態を引きずらないで済ませることができる。
ネガティブな感情を引きずることが不幸への道。
だから、身体操作でその道を断ち切る。
常に一点、一点、一点・・・をやっていく。
その先に、落ち着いた時間帯が多くを占める、リラックスした生活が待っている。

 

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反応と思考

喘息が再発してしまい、数日間咳が酷い。

現在、気管支の炎症を抑える薬で少し楽になっている。

咳が出る前、喉に微妙な痛みがある。その後、咳がゴホゴホと出てくる。

咳が出る時の自分の状態を観察すると、やはり一点が上がっている。

咳が出ている時は喉付近に一点が上がり、咳を出さないように我慢すると胸あたりにくる。

これは統一体が崩れている。

そこで、咳が出ているとき、一点を下げる様に身体使ってみる。

そうすると、胸の滞りがなくなり、この時は咳き込みが治まる。

この身体操作に慣れてきたところで、喉の痛みを感じる気配を覚えたらそれを下腹へ流す身体操作をしてみている。

喉の方が難しく感じるが、できないことはない。

これらをやっている中で、反応を思考によってある程度制御できるのかではないかと考えた。

身体への刺激によって身体に反応が起こるものの、その後、思考によってそれに抵抗しない身体運用を行う。

やっていることは道場での稽古と変わらない。相手との接触部の刺激に対して抵抗しない。刺激部に気持ちが向くと、刺激に身体が支配されてしまう。外的刺激に捉われることなく、思考によって氣を流す身体運用を行う術を身につけていく。

最初はアタマで考えながらこの身体運用を行う。目指すところは、自動的に思考する身体にしていくこと。自分の身体を、刺激による反応が起こった瞬間に自然と最適に(自分も周囲も心地良くなるように)動くように教育していく。

 

反応に身体を任せてしまうと、場合によってはかなり苦しいことを喘息に教えてもらった。

刺激に対して反応に任せるのではなく、思考によって状況を理解して変えられる身体にしていくことがお稽古を通して可能になるような気がしている。

「できない自分」ってどこからくる?

お稽古後に子どもクラスの指導に関して、同僚からかなり細かく丁寧に教えていると言われ、自分が何故そのようにしているのかを考えてみると以下のようになった。


小学生になる前から道場に通っている小学校高学年の子がいる。
この子がなかなか思うように身体を使えていないようだ。
できないのか、やろうとしていないのか。
本質的なことはできているので、やろうとしていないのだろうと思う。
何故やろうとしないのか。

ひとつ、幼稚を装うことでできない自分を正当化しているように見える。
さいころに、マスコット的にかわいがられていたとうい経験がそうさせているかもしれない。
また、彼は一人っ子ということで、親との関係も幼いままということがあるかもしれない。
そのようなところから、リーダーシップを身に着けなくてはならない環境に置かれていないと想像できる。

もう一つ、こちらが主な理由ではないかと思うのが、自分が傷つかないように、最初から「やらない」ということを無意識にやっているというもの。
あることをやろうとしたとき、できるまでやり続ける場合と、諦めて辞めてしまう場合に大別できると思う。
これは、前提として「やろうとしている自分」がいる。
その状態でうまくいかなかったとき、一旦「できなかった自分」と向き合うことになる。
この時、自身は多少のショックを受ける。
一方で「やろうとしない」が前提にあると、できなかったとしても「できない自分」と向き合わなくて済む。
もし偶然にできれば、それはそれで精神的負荷のない状態で周囲からの評価が上がるので、悪い気はしない。
なので、「やろうとしない」を前提に置くのは精神的に楽なのである。
ただ、見る人が見ると、これは完全に見抜かれる。
傷つきたくないために、できない自分と向き合いたくないという精神は見透かされてしまう。
元々はあることに真剣に取り組んだにも関わらず、結果としてできなかった(「できるようになる」あるいは「理解する」のを諦めた)という経験が、このような思考に繋がるのかもしれない。
小学校の高学年辺りになると、このような考え方が出てくるのか?

自分の経験に照らして考えてみる。
小学校高学年の頃の私は、特に苦労せずとも日常的なことには対応できた。
これは単に運が良かっただけで、家庭、親族など、育った環境に恵まれていたのだと思う。
しかし、周囲には、授業が理解できない、手先が器用ではない、物事を理解することに苦労するといったような同輩が多くいた。
田舎の小学校だったので仕方がないのかもしれない。
それで、そのような子たちの一部は、学年が進むにつれ、真剣に物事に取り組んでいる私を嘲笑するようになっていく。
さらに、理不尽な暴力まで駆使して私の成長を妨害するようになる。
私が成長することで彼らに何か被害があるのだろうか?
彼らの中では、どういう思考が働いていたのだろうか。
おそらく、みんながやらない、できないなら自分も同じで済むから、全体のレベルを自分に合わせるべく、できる人間を妨害する、ということをしていたのだろう。
その一つの表れが「真剣に取り組む者を嘲笑する」だ。
その下にあるのは、「自分は真剣に取り組まないからできないのが当たり前」という考えだ。
さらに、それでも自分と考えを異にして「真剣にやっている」他人がいると、「やればできる」という例ができてしまうので、「やらせない」ように妨害するという行動に出るのだろう。

そこでなのだが、私を妨害するような輩が、彼らの理解できなかたこと、できなかったことを放置せず、身に着くまでやり切ることができていたならどうだったのだろうか。
小学生が身に着けることなので、それほど高度な内容ではない。
このそれほど高度ではない知識や技能を確実に身につくまで取り組むことができる環境があり、彼らがその教育を受けることができたなら、それでも私を嘲笑したり、私の成長を妨害することをしたのだろうか。


このことを考えると、ロケット研究の植松努さんの話を思い出す。
いじめが起こるのは、「できない」というマインドがあるからだと植松さんは言う。
「できる」というマインドになるといじめはなくなる。
ロケットを打ち上げるというのは、最初はだれもが「できない」と思う。
でも、子どもたちそれぞれが小さいロケットを作って打ち上げるというワークを行い、その結果、自分で作ったロケットが打ちあがると、全員感動するそうだ。
全員「できない」が「できる」に変わる瞬間を体験する。
そうすると、「やればできる」というマインドが形成されるのだと思う。

その結果、自信を持つことができ、いじめはなくなるのだという。

 

道場に通っているその子はいじめをするような子ではないと思う。
このままいくと、どちらかといえばいじめられる側になるほうだ。
「できない」というマインドは、いじめる側にもいじめられる側にもなりうるマインドのような気がする。
そして、彼は「できない」(≒やらない)というマインドに支配されかけているように私には感じられ、このまま年齢を重ねていくと、どこかで誤魔化しが利かなくなる時が来ると思う。
ただ、小学校高学年で「できない」を感じているのはある意味幸運かもしれない。
人生の早い段階で、「できない」を経験し、それを意識的に「できる」に変えるプロセスを繰り返すことで、大体のことは「やればできる」という姿勢が身に着いていくと思う。
先に述べた「できるまで取り組める環境」はまさに道場のあるべき姿だ。
特に少年少女に対して真剣に対峙し、できるようになる瞬間を一緒に味わえる伴走者として関わることも私にできることの一つである。

 

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落ち着きと氣が出る場

最近、受けの攻撃について考えるところがあり、お稽古の中でも確認している。
今回は、肩取りに関する動きについて考えてみた。
簡単に言うと相手の胸倉を掴むような感じで取りに行くのだが、そのように乱暴に取りに行っては簡単にやられてしまう。
粗雑にやると、その粗雑さが全部自分に返ってきてしまって大きなダメージを受ける。
相手の道着を掴むのだが、相手の皮膚へ刺激を与えないように道着を掴む。
乱雑に手を動かすと、自分の手が相手にぶつかってしまう。
正確に道着だけを掴みに行く。
だからと言って恐る恐る掴みに行くわけではない。
しっかりと意思を持って掴みに行く。

この動作を一人でやってみると意外とうまくできない。
腕を動かすと身体のバランスが微妙に崩れ、不安定な状態になってしまうことが多々あるようだ。
そうなると、出した腕が軽々と持ち上げられてしまう。
一方で、意思を持って出した腕は簡単には持ち上がらない。
それどころか、不思議なことに自分の腕を持ち上げようとしている相手ごと自分の腕を下すことができる。
この状態を狙ってお稽古を行う。
腕だけを動かすとNG。
腕を動かすのに全身を使うと表現が適切だろうか。
背中や腰や太腿やふくらはぎや足の裏など、全てが少しずつ関与して腕を動かす。
(あぁ、そういえば生徒が全力で腕を上げようとするのを先生が横に立って腕を上げるのを妨害して、生徒さんに腕を上げようとさせ続けた後に、妨害をやめて生徒さんが腕を上げると自然に軽く腕が上がり、盤石の状態にあるというのがあるが、それは妨害されている間、生徒さんは身体全体でその妨害に対して腕を上げようとしていて、妨害がなくなった瞬間、その体の使い方が、最小限の動きとなって腕が上がっていくということなのかもしれない。)
部分のみを動かすのではなく、全体が連動して部分を動かす。

また、相手と対峙してこの動きを行うと、道着を掴みに行っていないことが判明する。
単に自分の手を相手の胸辺りに差し出すように出しているだけという動きになっている場合がある。
この動きを傍から見ていると、落ち着きがないように見える。
そうすると、見ている側も何となくざわざわした感覚になって、落ち着かない感じがしてしまう。
先の一人での動作をここに応用できるようにしていきたい。

 

ところで、道場外でも、例えばレストランなどの給仕の方に料理を雑にテーブルに置かれると、ちょっと嫌な感じがする。
一方で、落ち着いた感じでスマートに給仕してくれると、こちらも穏やかな感じになる。
落ち着いた無駄のない動きは、日常的な所作に現れてくる。
意思を持たない雑な動きは周囲へも波及し、場を乱しかねない。
逆に意思のある落ち着いた動きは、場を整える効果があるかもしれない。

ある企業の面接官の方は、面接を受けに来た人がその場の雰囲気を変えられる人かというのを採用基準の一つしていると話していた。
面接を受けに来た人が部屋に入ってきた瞬間に、その場が何となく明るくなったとか、その場にいる人たちの緊張感が解けたとか、そういう変化を見ているということだったと記憶している。
その人の持っている圧倒的な何かは場の雰囲気を確実に変える力がある。
氣が出ている人は氣が出る場を作ることができるのだろう。
無意識に不快な方向へ場の雰囲気を変えてしまうという人もいると思うが、それは問題外。
我々は、凛とした心地良い場を形成できるように精進していきたい。

 

 

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落ち着き

このところ子どもクラスで、1月の演武会の際に先生が行った体技「子供用」を一つずつやっている。

今回は正面打ち呼吸投げ。

ポイントは、相手の攻撃の氣が起こった時にこちらの身体を動かす。

だから、相手の身体の動きよりもこちらの動き出しが早い。

相手をよく観察して動きの始まりを見極める。

そのためには、落ち着いている必要がある。

落ち着いているとは、統一体になっているということ。

これは氣のテストで確認できる。

 

そこで、「落ち着き」について。

「落ち着いている」というと、微動だにしない状態を想像してしまうが、実はそういうことではないらしい。

落ち着いているとはどのような状態なのか、その伝え方を最近考えている。

両足をどっしりと地面に固定してしまうと、居着きという状態になるそうだ。

この「居着き」の状態だと、物事に即反応することができないようだ。

これは落ち着いているとは言えない。

そこで、足先で細かく足踏みをする。

できるだけ細かく、タタタタタタ・・・とやる。

このとき、頭の高さを一定に、上体が振れないようにして、足だけを動かす。

これをやり続けているときに氣のテストをすると、非常に強い状態なのが分かる。

そこから、足踏みの動きをさらに細かく小さくしていく。

動きの大きさを1/2、1/2、1/2・・・とどんどん小さくしていく。

最終的に、動きを確認できないくらいに小さくする。

そうなると外からは止まっているように見える。

けれども、自分の感覚では、ものすごく細かく激しく動いている。

これが静止の状態、つまり、落ち着いた状態だ。

この状態で相手の眉間に氣を向け、相手の氣の起こりを見極める。

以上のような説明を中学3年生にした。

 

この状態を常に保持し、最終的には無意識でできているようにする。

そうすると、落ち着いた状態で思考できるようになる・・・ようだ。

物事を考えようとするときや、理解できないことを理解しようとするとき、氣を引いてしまうことが多い。

考えているようで考えていない。

「下手の考え休むに似たり」だ。

落ち着いていない状態だとそうなってしまう。

 

落ち着きを得て、しっかりと思考し、あらゆることに対応できるようにできるようにしていきたいものだ。

とはいえ、上記のように、真の落ち着きを得るためのお稽古は日常にあり、それなりに根気が必要なのである。

 

※聰心館メインのHPへのアクセスができない状態になっているようですので、ひとまず以下のリンクを貼ります。

トピックス - 聡心館 (soshinkan.net)

 

無意識の力

日常的に無意識に行っている動きって結構力があったりします。
例えば、棚にあるグラスを取る動作とか、ティッシュをつまむ動作とか、頭を掻く動作とか、つり革から手を離す動作とかなどなどです。
氣のテストをされる際、日常的な動きができていると盤石で、邪魔されても全く問題なく自分の身体を動かすことができます。
ところが、漠然と身体を動かすと、途端に身体のバランスが崩れた状態になり、簡単に体がふらついてしまいます。
日常的な動きにはほとんど力を使っている感覚はないと思いますが、この動きにすごい力が秘められているのですね。
目的を持ったあと、無意識で動くとすごいパワーが出ると理解して良いかと思います。
この「無意識で動く」を、目的に意識が向いているときに発動させられるかが肝のようですね。
お稽古で練っていきたいです。

 

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