メタ認知

メタ認知
https://www.kaonavi.jp/dictionary/metacognition/

メタ認知とは、「自分が認知(考えている・感じている)していることを客観的に把握すること」だそうです。
「メタ」には以下の意味があるとのことです。
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メタ認知の「メタ」には、「高次の」という意味があります。従って自分が「認知している」こと、たとえば記憶や思考、学習したことなどを、「高次の」(=メタ)視点から認知しよう、というのが「メタ認知」の直接的な意味になります。
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このメタ認知の能力が低いと、自身の行動を客観的に把握できず、トラブルに発展する可能性もあるそうです。
メタ認知の能力は、自分を冷静に観察するというところで難易度が高いのだろうと思います。
合氣道のお稽古では、まさにメタ認知をやっています。
お稽古の中で、あることをやろうとしている本人の行動は、他者から見るとまるで違う動きになっているというのはよくあります。
この状況では、本人はやろうとしているのにできないという結果になります。
外側から、いくら違っていると指摘し、さらに、動きのお手本を示しても、本人の行動は全く変わらず、変わったとしてもまたやろうとしていることとは程遠い行動になります。
これは、本人の認識がズレていることが明らかになった結果です。
すなわち、お手本を見ていない、人の話を聴けていない、ということになるのです。
結構唖然としますよね。
リンクの記事にも書かれていて、私も実際に感じるのが、自身の能力が高いと思っている人ほどこのズレが大きいような気がするということです。

海外から来ている方で、日本語がまだよく理解できない方は、合氣道の理解が早いというのも目の当たりにしました。
言葉がわからないから、お手本をよく見て真似ることだけをやると、余計な情報がないので素直に行動できます。
その結果、スムーズに自分の中にお手本が入ってきます。
日本人だと、日本語をある程度理解できるので、説明される内容を自分で翻訳してしまう場合があるようです。
それで、説明されている内容を曲げてしまいます。
ある意味では、日本語を理解できるという能力の高さを信じていたところ、実際は日本語の理解力が不足していて全く違う行動を取ってしまうというメタ認知能力の低さが露呈されるものと言えます。他には、言葉自体の能力を過信していて、言葉では表現しきれないことがあることを理解していなかったということもあると思います。
なお、先の海外から来た方の日本語の理解が進むにつれて、「オレ、合氣道下手になったヨ」と言っていました。
日本語の理解と合氣道の理解は相反するという何とも悲しい現実です。
(本来はそんなことはないはずなのですが・・・。伝える側としては、正しい日本語を使うことがとっても大事。)

先生は学ぶ姿勢について「自分を空にしておくこと」と言います。
示されたお手本、言われたことを、自分のフィルターを通さないでそのまま行うこと。
自分の考えを入れない。
以前に似たようなことを教えてもらっていたとしても、今回は全く異なる内容であると理解して取り組むこととも言われます。
「あー、前にやったあれね。」という姿勢だと、今回新たなことが含まれていたとしたら学びの機会を失ってしまいます。
知っているという思い込み=メタ認知能力の低さです。
道場では、メタ認知能力向上の養成も行っていることになります。

 

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習慣化

お稽古でリクエストを募ると、攻撃のしかたについて学びたいとの要望。
攻撃として正面打ちや突きを行う際、間合いを詰めている間に一点が上がってしまうというのが、現在当人が抱えている問題。
ということで、一点を保った状態で間合いを詰めるお稽古を行う。

本部での講習会において、相手を掴む行為は氣圧と同じと指導されている。
それを拡張して捉えると、相手との接触が発生する攻撃も氣圧、すなわち相手にこちらの氣を作用させると同時に相手の状態を感じ取るものであると考えられる。
本質は、相手に近づいて氣のテスト行うのと同じ。
なので、相手から離れた位置から近づいていき、氣のテストを行うことをしてみた。
そうするとですね、氣のテストをするときに一点が上がります。
テストする人を別の人がテストすると統一体が崩れていることが判明します。
こうなると氣のテストどころではないんですね。
で、氣のテストは実は難しいということに氣付かされます。
氣のテストは強弱を論ずるテストではなく、これを行うものはまず自ら心身を統一し正しいテストを行い、相手に自分の状態を知らしめるものです。
自ら心身を統一してないと氣のテストではないんですね。    
攻撃も氣のテストの一種と捉えると、心身統一が攻撃の前提条件になります。
詰まるところ、心身統一が継続できるというのが課題なんですね。
心身統一(統一体)というのは、習慣が作るものだと考えています。

週に一回道場に来て、道場での稽古だけで身に付くものではないんですね。
でも、多くの方は道場での稽古だけで身に付くと信じているようです。
道場での稽古だけで習得しようとするなら、終日道場にいる必要があります。
ただ、道場に居ればよいというわけではなく、稽古しないとだめです。

習慣化するのは結構硬い意思が必要になります。
日常での自身の状態が落ち着いているかを観察し修正し続けます。
これ、結構大変です。
本気でやらないと続きません。
で、継続できるかどうかのカギが愉しんでやれるかどうかなのではないかと考えています。
習慣化が必要ということは、無意識でできるということなので、即効性はありません。
やり続けて、やっていることすら忘れて、ふと気づいたら変わっていたというのが実際のようです。
「やっている」という意識があるようではまだ無意識に落とし込めていません。
これがね、私のような未熟者はやっぱり「やっている」をやってしまうんですね。
それでも、日々、臍下の一点にすべてを収める(この字でいいのか?)を、やり続けるしかないんですよね。

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「我」と共に生きていく

仏教でいわれる「我」とは異なるのかもしれないが、私なりの「我」との付き合い方を考えてみました。

 「我」がなくては生きていけないし、「我」を手放すことはできない。
一般的に「我」はネガティブなイメージとして語られることが多い。
 けれども、「我」は必ずあるもので、私とは切り離せないものであるならば、「我」をよくないものと考えて排除するのではなく、私の大切な一部と考え、「我」と上手く付き合う術を考え、身に着けていくことが必要ではないか?

 私の一部である「我」が暴走するときに、あまり好ましくないことが発生する。
 そのために「我」という存在を認識する必要があります。これがかなり難しい。「我」を認識できたら、目標を半分達成できたといってもよいのではないでしょうか。
 で、その「我」とは何か?
 これを認識させてくれるのがお稽古の「相手」なんだと思います。
 合氣道の技が効かないときは、「我」が出ているときです。

 先生はよく「相手はいない」「相手を作るから投げられない」「相手を作るからぶつかる」と言われます。
 「相手がいる」と思う私が「我」を生み出しているようです。
 「我」は私の一部だけれども、私が異物(≒「相手」)を認識するときに出てくるものらしい。
 少し乱暴に言うと、「我」=「相手の存在」。大雑把に、自分の思い通りにならないもの。
 ここで、相手を異物ではないもの(自分の一部)として捉えられると、たぶん状況が変わってくるかもしれません。

 そこで、「我」を原因となっている相手(相手のせいではありません、ゴメン!すべての責任は私にあります)に担当してもらう。
 そのうえで、「我」=「相手」とどう折り合いをつけるのかという問いを立てると、具体的な取り組み内容が見えてきます。
 その思い通りにならない存在(今回は「相手」)を含めて「自分」として振る舞うということをゴールに設定し、合氣道を通して目標達成を目指す。

 心身統一合氣道には、合氣道の五原則というものがあります。
  一、氣が出ている。
  二、相手の心を知る。
  三、相手の氣を尊ぶ。
  四、相手の立場に立つ。
  五、率先窮行。

 「相手」というところは「我」と置き換えてみます。
 合氣道の五原則では、最終的に相手に不快感を与えずに相手と同化することになります。
 今回は私の中にある「我」を外部の「相手」に担当してもらい、その「相手」を同化するという作業です。
 すなわち「我」を同化するということになるます。

 もともと自分の一部だったものを一旦外に出して改めて同化するという、全くもって面倒くさいことをやらなければならないのが人間の面倒くさいところ。

 結局のところ、自分を含めた全体が機嫌よくいられるように振る舞うということになるのですが、じゃあどうやってやるの?ということを理解していくのが合氣道の実践なのだと考えております。

 う~うまくまとまらない。。。

 

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目的を見失うと・・・

現在、道場では「臍下の一点」をテーマにしてお稽古を実施中です。
臍下の一点に心が静まっていると落ち着きがあります。目の前にいる方が落ち着いているか、落ち着きがないかというのは、なんとなく感じるのではないでしょうか。
(ただし、静かにしているだけで、内面が全く落ち着ていいないという方もいます。)
「氣のテスト」は落ち着きを判断する一つの方法です。
心と身体は本来一如ですので、心が落ち着いていれば、当然身体も落ち着いています。
だから、落ち着いていれば、少しくらい身体を押されたくらいではびくともしません。

ところが、氣のテストをしてくれる方からの評価を気にしてしまうと、押されても「動かない」状態が目的にすり替わることがあります。
そうなると、本人の中での落ち着きはどこかへ行ってしまい、動くまいとしているにも関わらず、氣のテストで簡単に動いてしまします。

目的は、本人が「落ち着き」を理解して実践することです。
氣のテストは、落ち着いている状態がどのような心持ちなのか、どのような身体感覚なのかという理解の度合を、本人が知るための方法のひとつです。(氣のテストで動いてしまったら、自身の理解がずれていたということなので、ずれ分を修正する方向にもっていけば良いのです。)

氣のテストで動く、動かないではなく、まずは本人が落ち着いている感覚にあるか自身と対話し続けることが大切だと考えています。
氣のテスト後の評価は自分ですることになります。氣のテストをしてくれる方に評価される必要はないのです。
氣のテストをしてもらって押された感覚が小さければ、落ち着いていたということです。他方、氣のテストをしてもらって動いてしまったり、押された感覚が大きければ、落ち着きの感覚がずれていたということです。これらは自身での評価になります。
この自身の評価を基に次にどう行動するのかを、これまた自身で決めて取り組んでいきます。落ち着いた感覚の精度をさらに上げていく、感覚のずれを修正していく、などです。
テストをしてくれる方が全部面倒を見てくれるわけではありません。
テストをしてくれる方は、サポートをしてくれる方です。
得られた結果を基に方針を決めて実践するのは自分以外にいないのです。

枝葉に囚われず、本質を見極めて行動していきたいものです。

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今の自分における合氣道の目的

技が成立するかどうかは、相手と良好なコミュニケーションが取れているかどうかによる。
身勝手にやっていては何も生まれないし、自分もしくは双方が崩壊する。
だからといって、相手に迎合するのでは相手の言いなりとなってしまい、これでは自分が心地よくない。
自分も相手を含む周囲も心地よくなる術は?
合氣道の実践がそのヒントもしくはそのものとなると考えている。
技が成立するとき、それは相手も自分も心地よい状態のとき。
誰も不満がない状態。
こちらがその心地よい場を作り出せたとき、技は成立する。
双方が心地よくいる場を作り出すマインドを私が持っていれば、行動として身体の動きに現れ、相手はこちらの希望を受け入れてくれる。
これは二人での共同作業を成立させたということなので、一人での作業よりもパフォーマンスの高い状況といえる。
そこから「合氣道の技の成立=パフォーマンスの高い場の形成」と考えることができる。
とすると、そのマインドを持っていれば、合氣道に限らず日常でもその場を作り出すことができるはず。
すなわち、日常でパフォーマンスの高い場を作ることができるはずだ。
現在の私における合氣道の意味は、そのマインドの形成にあるのではないかと感じている。
合氣道の稽古は、どのような激しい動きの中でも、どのような抵抗をする相手でも、それが一人でも多数でも、その場を高いパフォーマンスの場にできるかどうかの検証の場といえる。
そのマインドを持ち合わせているかどうかの結果は、技が成立するもしくは成立しないという形で具体的に示される。
合氣道の稽古は、非常にわかりやすく自分の状態を教示するシステムとして機能してくれる。
なので、私の技を止めてくれる方(=私の不足している部分を指摘してくれる方)は大歓迎なのだ。

このようなことから、現在の自分における合氣道の目的は、場のパフォーマンスを上げられる心身を形成していくことと、これをできる人を増やしていくことだと考えている。

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場を整えるか乱すか

道場では、引き続き臍下の一点についての理解を深めるお稽古を実施中です。

一点が静まっていると、心身共に外乱に対して動じない状態になっています。

動じないというか、自然に外乱に対応しているというか、外乱を自分に取り込んでしまうというか、あまり外部の出来事が自分に関係ない状態になっています。

ある意味ゾーンに入っているということでしょうか。

集中力が高まったという感じです。

この状態を作り出す一つの方法として、前後左右に大きく動いているところからその動きを1/2,1/2,1/2・・・と小さくしていくというものがあります。

これを周囲からは動きが認識できないくらいに小さくしていきます。

そうすると、周囲からは止まっているように見えても、自分の中ではものすごく細かく激しく動いている感覚になります。

この感覚を持ち続けると、周りからはほとんど影響を受けないでいられます。

これの状態を「一点が静まっている」といいます。

この一点が静まっている時の感覚自体は比較的得やすいと思います。

初心者でも数十秒程度ならこの状態を維持することは可能です。

しかし、一点が静まっている状態を持続するとなると、かなり大変なのです。

意識的にこれをやっていては、他のことに思考が回らないので行動できません。

なので、無意識で、つまり標準を一点が静まった状態にしていくのが一つの目標になります。

無意識でできるようになるということは、習慣にするということです。

だから、最初は意識して取り組む必要があります。

ことあるごとに一点が静まっているかをチェックするのです。

そうやって少しずつ体に染み込ませていきます。

これは、容易ではありません。

新たな習慣を身に付けるというのは相当のエネルギーが必要になるのです。

だから、楽しんで取り組む術を見つけないと続けられないのですね。

 

あら、場の話から遠ざかってしまいました。

 

そう、習慣化されていない一点が静まった状態というのは、すぐに乱れてしまいます。

一点が静まっていないと、その人のパフォーマンスが下がります。

なので、もしもある方をパフォーマンスの高い状態にしておこうとするなら、その人が一点を静められる場を作るとよいと思います。

こちら側で場を整えるということです。

これが「氣が出る場」ですね。

または、一点が静まっている状態を乱さないように配慮しても良いと思います。

無駄な刺激を与えたり、氣をそらしてしまう行動をとらないように氣を付けます。

一方で、一点が静まった状態を崩させてしまう、場を乱してしまう行動もあります。

これは無自覚にやっている場合も大いにあります。

何気ない行動で、こちらの氣が相手に悪影響を及ぼしてしまうことがあるので注意が必要です。

先生はよく、一点を静めることを手伝うという表現をされます。

乱す方ではなく整える方へ氣を使うということなのだと理解しています。

振り返って、前回の稽古のなかでの流れから「氣で乱す」を私も試してみたら、対象の方の一点が乱れたので、「乱す」は何となく理解が進んでいるようです。

ただ、「乱す」しかできないのでは意味がなく、「整える」の理解を深めていく必要があります。

私自身を整え、周囲にも良い場を提供できるように精進していきます。

 

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脳と身体のバージョンアップ

今回のお稽古でご一緒頂いた方は、身体の使い方や状態を例えば柔らかく変える必要があるのではないかという意見を持っていました。

その発言に対して、私の意見は脳を変えるというものでした。

脳の使い方を変えると身体の使い方が変わります。

ソフト(OS)を書き換えると、同じハード(PC)でも機能が変わります。

一方で、どんなハイスペックなハード(PC)だとしても、ソフト(OS)が同じだと機能は変わりません。

もちろんソフトに応じてハードのスペックを上げることが必要な場合もありますが。

合氣道はソフトとハードの両面からのアプローチが可能といえば可能です。

ただし、ハードの改良を繰り返しやってきていて、そこにソフトが追い付いていない場合が多いように思います。

ソフトが書き変わると、できることが大幅に増えます。

ソフト書き換え期間はまさに正念場ですね。

この期間が短くて済む人もいれば、長い期間が必要な人もいます。

私は何年もかかっている人間です。

なので、苦労されている方のお気持ちは比較的理解できる方だと思います。

OSの小さな更新は自分の中で少しずつ行われていると思うのですが、OSの大幅な更新がやって来る時がたまにあります。

そうすると自分でも少し驚くくらいの変化があります。

本当に急に変わるんです。

氷を温め続けてもしばらく0℃から変化しないけれども、溶けて水になると一気に温度が上がり始めるような感じです。

そして、温度が上昇し続けて、100℃になったら今度は沸騰が始まり、水がなくなるまで一定の温度で沸騰を続け、状態は変化しません。

この沸騰していて温度一定の期間が長いの。

で、水がなくなると今度は容器の温度が上がり始める。

例えば鋼の鍋だと融点は結構高いですね、何℃? 1400℃くらい? そこまで温度が上がったら、またそこで成長が一旦止まる。

この水の融点や沸点、鋼の融点の状態にいるときにどれだけの熱量を入れるかでその期間の長短が決まるように思います。

温度が上がるほど、投入しなければならないエネルギーは大きくなります。

だから、今まで通りの稽古だと、次の変化まですごく長い時間が掛かります。

稽古時間を増やしたり内容を工夫するなどして、稽古の量と質を増すことができると、投入エネルギーは増えますから、次のステップがより早くやってきます。

ただ、レベルが上がると、指数関数的に理解すべき内容が深くなっていくので、エネルギーを投入すれども温度が変わらず、自分の理解不足に絶望的な気分になることもあります。

やればやるほど自分の下手さ加減を突き付けられるという、なんとも矛盾した構造を合氣道は持っております。

そんな試行錯誤をしている中で、OSのバージョンアップによってある部分が書き変わると、この下手さ加減を突き付けられることを楽しめるマインドを持てたりします。

こうなると結構変態ですね。。。

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